ナオは…いい子だね

そういったあの人の声が、不意に聞こえた




■空■


夏だった。

照りつける太陽。気温はぐんぐん伸びていき、意識が朦朧とする。
涼音が自転車で傍を通り過ぎるのを横目に見て、大河が声を出せと叫んでるのが聞こえ、
それに答えているうちに、汗が吹き出して、見る見るうちに体を渇かしていく。
何度も走りぬいたコースを踏みしめ、苦しくなる呼吸と痛くなる脇腹を感じながら

なぜだか不意に空を見た。


真っ青な空に


どこまでも白い 巨大な入道雲が見えた…


そして


『ナオ…いい子だね』



…聞こえるはずのない あの人の声が聞こえた…




そう思った瞬間

突然視界が真っ暗になった。



***

「加具山さん!気がつきましたか?」
「…」

目を開けて、呆然としている加具山を見て、榛名はその瞳を覗き込んだ。

加具山はぼぉと瞬きを繰り返し、どこか虚ろとしている。

「…大丈夫ですか?」
「…ここは?」
「グランドのベンチですよ。」

・・・ベンチ?
と加具山が不思議そうな声を出す。

「加具山さん、途中で倒れたんすよ…日射病ですって」
「…はは・・・情けね―な」
「…大丈夫ですか?顔真っ青ですよ」

榛名はそう言って手を伸ばし、加具山の頬に触れた。
加具山の頬はこの気温に似合わずどこか冷たく、血の気がなかった。

「・・・本当に大丈夫ですか??保健室行きますか?」

榛名が覗き込むと、加具山はどこか虚ろに天上を見つめ、ぽそりと呟いた。


「…俺…何か言ったか?」
「え?」

加具山の言葉に、榛名は目を丸くする。

「いや…なんでもない。」

加具山は掠れた声でそう言うと瞳を閉じた。

「加具山さん?」

榛名がもう一度呼んだ時、加具山は瞳を閉じ、また眠りに入ってしまったようだった。
もう一度加具山の頬に触れ、それから榛名は水で冷やしたタオルを静かに乗せてやった。

***

ひんやりとしたタオルの感触が気持ちよかった。
寝たわけではなかったが、瞳を開けているのも、喋るのも億劫だった。
体がだるく、何もしたくない…そんな虚脱感。

頭が重い。

でも

そんな時にさえ、思い出さないようにと
心深くに閉じ込めた記憶だけが、まるで蝕むように思い出された。

***

ナオはいい子だな…


あの人は、それが口癖だったと思う。
いつもそう言って、大きな手で自分の坊主頭を撫でてくれた。
自分はそれが嬉しかったから、撫でられるとつられて笑ってしまった。

あの人の掛け声に答えるように、走った道のり。
あの人の投げる姿をみて、憧れたあの日。
倒れそうになりながらも、必死に彼の背中を追いかけた日を覚えてる。

今日のような日も、前を駆ける彼の背中を追いかけて、アスファルトを踏みしめた。

背が高く、かっこいい彼は、加具山の憧れだった。
あの人みたいになりたいと、何度思った事だろう…


でも…

あの日



『ナオ・・・おいで』



とあの人は自分を呼んで

小さな教室に自分を誘い込んだ。

季節は 春だった・・・

入った教室の窓から、桜が咲いているのが見えて
赤い夕陽が眩しかった…

彼が鍵を閉めても、特に不審に思う事もなく、
彼が自分の傍に寄ってきて、あの大きな手で顔に触れてきても
特に逃げようとも思わなかった。
頭を撫でてもらう事は良く合ったし、

彼が自分に触れてくる意味を考えられるほど…大人じゃなかった。

***

ナオ・・・

ナオはいい子だな


だからナオ

いいよね…

***




遠くで、下校の時間を知らせる音楽が鳴っていた…。


遠くで 吹奏楽の演奏が聞こえた


遠くで

あの人の声が聞こえた…



***



ナオはいい子だね

だから

今日した事は


内緒だよ 


***

全てが終わった後に、彼は小さくそう囁いた…。
虚ろな瞳に涙だけが渇くことなく溢れていて、
その涙がいく筋にもなって頬を流れていく…そんな自分を見つめ、頬に触れながら

彼はそう囁いた。

目を合わすができなかったから、彼がどんな表情で言っていたのか分からない…。
でもその声は まるでいつもの声音と変わらなかった。

涙が乾かない瞳はただ虚ろに外を見ていた。
風に乗って桜が散っていく光景が、異様に記憶に残った。

その光景は、まるで自分と彼との関係が崩れていくのを、見せ付けられているようだった。


***


視線が定まらないまま家に帰り、その日はすぐにお風呂に入った。
無意識のうちに大量の石鹸をつけ、体を洗って なんどもお湯で流していた。


頭はただただ空洞のように何も考えられないのに

涙が出て止まらなかった。

夢だったのかもしれないと

あれは幻覚だったのかもしれないと

自分に言い聞かせようとしたけれども
それは許されなかった・・・

なぜなら

お風呂場の鏡に映った自分の体には
無数に散りばめられた赤い花が見えたからだ・・・。

あの教室で起こった出来事を、まるで証明するように散りばめられた証…。
それを見た瞬間 自分の心は音もなく崩壊した。


何故・・?

どうして?

ドウシテ・・・



彼には

恋人がいた。

同い年の綺麗な少女がいた。

その少女と共にいる彼を、何度見てきたことだろう…。
おしどり夫婦だと、皆にからかわれていたのは、そんなに遠い記憶だっただろうか?


彼は、彼女が好きだといっていたはずだ。
彼から交際を申し込んだと聞いていた。


なのに何故…

何故彼は

自分にあんな事をしたのだろう…?


小さな教室に自分を閉じ込め…
冷たい床に組み敷いて
まるで所有物のように、赤い印を刻みつけた・・・。

泣いて叫ぶ自分を、まるで獣のように貪ったのに・・・

なのに
そんなことをしても、なお

彼は一度も


自分に愛の言葉を囁かなかった・・・



****

あの日から人に触れられるのが恐くなった。狭い教室も、恐くてたまらなかった。
一人でいるのが恐く、でも誰かといるのも恐かった。
誰にも心を開く事ができず、毎日大河と涼音とばかりいた気がする。
誰にも相談できず、誰にも心を開く事ができず、
ただ彼の後姿を見つけるたびに、立ちすくみ、腹の底からの怯えで足が震え
逃げ出す日々を送った

だってわからなかったから

彼はあんなにも少女に笑顔を向け、皆からも羨ましがられるほど仲睦まじいのに
なぜ彼のあの手は、自分を捕らえたのか・・・
あの日、あの教室で繰り広げられた出来事は
はたしてどんな意味があったのか?

与えられたあの行為は、涙を流すだけでは癒されず、
男としてのプライドも、今まで信じていた信頼関係も
全てを粉々に壊したというのに・・・

何故彼は あそこであんなにも笑顔でいられるたのだろう?
まるで何事もなかったかのように、生活できるのだろう?


…どうして?


自分が憎まれていたのか?
憎まれていたからこそ、あのような事を強いられたのか…?


わからない・・・


唯一つ 覚えている事は

彼のあの声だけ…

**

ナオ

いい子だね


***

暑い日差しが照りつけている。お昼休みという事で、榛名はそのまま加具山に付き添っていた。
冷たいタオルを目元にあてた加具山を見つめて、榛名は目を細める。

先ほどの加具山は、どこか様子が可笑しかった。
どこか遠くを見ているような…そんな虚ろな感じ。
榛名を見ているようで、だが、榛名を通り越してもっと遠くの何かを見ているような、虚ろな瞳…。

(…加具山さん)

榛名はそっと手を加具山の額に当てた。
そういえば、今日は触れても逃げなかった。
いつもは何とか逃げようとするくせに・・・。

加具山は人に触れられる事を極度に嫌っている気がする。
自分が手を差し伸べると、いつも小動物のように怯えるのだ。
その姿が可愛らしくもあり、逆にどこか強引にでも触ってみたいという想いに駆られるのだが、
今日は自分が触れられているという事すら意識してないようだった。

今日の加具山さんは、どこか変だ。
榛名がそう思いかけた時、

「・・・して」

「・・え?なんですか?加具山さん」


「…どうして…先輩」

「・・え?」

微かに動いた唇から、加具山の声が洩れた…
「加具山さ・・っ」

榛名は驚いて、身を乗り出した。
加具山から洩れたその声は、涙に震えてひどく聞き取りにくかった。

それでも、小さく紡がれたその言葉は

榛名からすべての音を消し去った。







「…どうしてあなたは・・・・・・・…あの日…俺を犯したんですか?」









***

真っ青な夏の日に

聞こえるはずのないあの人の声が聞こえた


どこまでも 優しくて

どこまでも 冷たい


あの 言葉が


****


ナオ・・・

いい子だね

***



続く



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